今で言うエスタブリッシュメントに対して、よれよれレインコートの貧乏コロンボが事件を解決していく。
コロンボの仕事に対する態度こそが、刑事コロンボの魅力です。
貧乏なコロンボの方が、エスタブリッシュメントの人達の生活より魅了されます。
注)逆に、当時のアメリカ人にエスタブリッシュメントの生活を見せるために、刑事コロンボが作られたとも言われているようです。
(1)与えられた仕事
イワン・デニーソヴィチの一日(A・ソルジェニーツィン著)と言う本があります。
この本には、強制収容所でも自分の意志で仕事に没入する人の話があるようです。即ち、仕事をする目的はお金ややりたいことだけではない様です。
多くの人は、学校を出て、自分の入れる会社を選んで、会社から与えられた仕事をしていきます。一部の人を除くと自分のやりたい仕事と言うより、与えられた仕事となりますし、給料も大満足とまではいかないと思います。与えられた職場で、仕事とは何か知ることになります。
(2)仕事への興味
うつ病になった人は、仕事のことが頭に入らず、手に着かない様です。逆に言うと、通常では人はある程度、仕事に興味が持てるから、仕事をすることができる様です。実は、なかなか納得できないと思いますが、自分が思っている以上に、潜在的に仕事が好きな様なのです。
(3)理不尽な環境
人生を通して、仕事が嫌で嫌でたまらなくなるときが何回もあります。その様なときは、仕事自体に対するよりも、むしろ人間関係に起因することが多いと思います。何か問題が起きたときや忙しい時、攻撃的で、責任転嫁する人がいるのです。また、上司は仕事がうまくいくように辛抱を強要します。
人生は、理不尽です。理不尽がなければ画一的な人生しかない様な気がします。画一的な人生は、家畜の様なものです。人生は理不尽だからこそ、生きる価値があるのではないかと考え、理不尽を積極的に受け入れることが必要なのかもしれません。こう考えると、仕事は人生にとって意外に有益なものかもしれません。
逆境を受け入れるべきことは、色々な方がおっしゃっています。
『私たちは必ずしも、順境のうちで充実感をもって生きたり考えたりするものではない。むしろ、順境の中に安住することは、人間としていきることの放棄にさえなるだろう。(哲学の現在 中村雄二郎著 岩波新書 p3)
『不運や不幸や悪条件に見あわれた人間こそが、人間の心の内奥を覗き見、自分の弱さと闘う最大の課題を与えられた「選ばれた人」であると言っても過言ではないであろう。』(ニーチェとの対話 西尾幹二著 講談社現代新書 p143)
職場こそ、逆境の宝庫ではないでしょうか。
(4)仕事の報酬
私たちは、仕事に人生の貴重な多大な時間を取られています。不労所得や早期リタイアを夢見てしまいがちになります。
芥川龍之介の杜子春は最後に、
『「お前はもう仙人になりたいという望みも持っていまい。大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。ではお前はこれから後、何になったら好いと思うな」という問いに対して、
「何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです」と答えました。』
また、時代や社会によっても、判断基準が異なってしまうことに気をつけるべきかもしれません。
メキシコ人の漁師の小話。
『メキシコの田舎町。メキシコ人の漁師が小さな網に魚をとってきた。
それを見たアメリカ人旅行者は、
「すばらしい魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの」 と尋ねた。
すると漁師は
「そんなに長い時間じゃないよ」
と答えた。旅行者が
「もっと漁をしていたら、もっと魚が獲れたんだろうね。おしいなあ」
と言うと、
漁師は、自分と自分の家族が食べるにはこれで十分だと言った。
「それじゃあ、あまった時間でいったい何をするの」
と旅行者が聞くと、漁師は、
「日が高くなるまでゆっくり寝て、それから漁に出る。
戻ってきたら子どもと遊んで、女房とシエスタして。
夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、
歌をうたって…ああ、これでもう一日終わりだね」
すると旅行者はまじめな顔で漁師に向かってこう言った。
「ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した人間として、
きみにアドバイスしよう。いいかい、きみは毎日、もっと長い時間、
漁をするべきだ。 それであまった魚は売る。
お金が貯まったら大きな漁船を買う。そうすると漁獲高は上がり、儲けも増える。
その儲けで漁船を2隻、3隻と増やしていくんだ。やがて大漁船団ができるまでね。
そうしたら仲介人に魚を売るのはやめだ。
自前の水産品加工工場を建てて、そこに魚を入れる。
その頃にはきみはこのちっぽけな村を出てメキシコシティに引っ越し、
ロサンゼルス、ニューヨークへと進出していくだろう。
きみはマンハッタンのオフィスビルから企業の指揮をとるんだ」
漁師は尋ねた。
「そうなるまでにどれくらいかかるのかね」
「20年、いやおそらく25年でそこまでいくね」
「それからどうなるの」
「それから? そのときは本当にすごいことになるよ」
と旅行者はにんまりと笑い、
「今度は株を売却して、きみは億万長者になるのさ」
「それで?」
「そうしたら引退して、海岸近くの小さな村に住んで、
日が高くなるまでゆっくり寝て、 日中は釣りをしたり、
子どもと遊んだり、奥さんとシエスタして過ごして、
夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、
歌をうたって過ごすんだ。 どうだい。すばらしいだろう」
漁師は尋ねた。
「それ、私がいまやってることと何が違うんです?」』
これには、色々な意見があります(意外ですが、アメリカ人の意見が正しいという人の方が多い様です)。
これに似た話を持ち出して開高健は書いています。
『何が”先進”で、何が”途上”であるか。それは判断の眼一つをどこに持っていくかでいくらでも定義を下すことができるし、どうにでも変わるものであるということを、この小話はいいたがっている。殊に(ことに)、何が幸福であるかを議論しはじめるとすべてがグラついてとめどがなくなるということもいいたがっていると、思われる。うかつに、”大国”だの、”近代化”だのをムキになって思いつめるととんでもない赤っ恥をかくことになりかねないから、皆さまよくよく気をおつけなされヤ。』(生物としての静物 開高健著 集英社文庫 P200)
もしかしたら、メキシコ人漁師の気持ちは、こんな感じかもしれません。
『私の少年期を支配していた美しい太陽は、私からいっさいの怨恨を奪いとった。私は窮乏生活を送っていたが、また同時に一種の享楽生活を送っていたのである。私は自ら無限の力を感じていた。…この力の障害となるのは貧困ではなかった。アフリカでは、海と太陽とはただである。さまたげになるのは、むしろ偏見とか愚行とかにあった。』(異邦人 カミュ著 窪田啓作訳 新潮文庫 P130)
また、将来を心配しすぎて、今を犠牲にしすぎるのも問題なのかもしれません。
『一体日本人は生きるということを知っているだろうか。小学校の門を潜ってからというものは、一しょう懸命にこの学校時代を駆け抜けようとする。その先には生活があると思うのである。学校というものを離れて職業にあり附くと、その職業を為し遂げてしまおうとする。その先には生活があると思うのである。そしてその先には生活はないのである。
現在は、過去と未来との間に劃(かく)した一線である。この線の上に生活がなくては、生活はどこにもないのである。』(青年 森鷗外著 新潮文庫 P62)
(5)仕事と家庭
仕事の責任と家庭の負荷がストレスとなり、社会の支配的な価値観が揺らいでしまうときがあります。
『私たちが環境との安定した関係のうちにあるとき、また社会の支配的な価値観を信じ、そのうちに生き甲斐を見出しているとき、ほとんど自分をかえりみないですむ。
ところが、これまで不動なものと思っていた社会の支配的な価値観が揺らいだり、あるいは、私たちがその価値基準の支配するところに生き甲斐や意味を見出しえなくなったりするときがある。それほどではないにしても、そこに或る物足りなさ、空しさを感じるようになったりするときがある。その場合私たちは、どうしても自分をかえりみざるをえない。そして、なんとかして考え方や生き方の確実な基礎を見出そうとすることになるだろう。このように考え方や生き方の確実な基礎を見出そうとするとき、当然私たちは、これまで自明なもの、不動なもの、確実なものとされてきたあれこれをあらためて問いなおし、疑うようになる。』(哲学の現在 中村雄二郎著 岩波新書 P9~P10)
『昔1960年代に「人間蒸発」という流行語があって、男の人が突然いなくなって、別の町で身元をゼロにして、人知れず生き続ける事件がしばしばあった。彼らは、会社と家族という二つの檻のなかで自分が消えてなくなってしまうというような不安感が深くあって、そこからの脱出という引き算の行為によってしか自分を再建できないという、せっぱつまった感情に追い込まれていたのであろう。』(じぶんこの不思議な存在 鷲田清一著 講談社現代新書 P23)
『「ほら、最近は、大変な家出ばやりだろう?(…)
「家の長男がひょっこり家出してしまったって言うんだよ。」(…)
「その青年の気持ちも分らないじゃない。百姓ってやつは、働いて土地をふやせば、それだけまた仕事の量も多くなる…結局、苦労に限りはないし、あげくに手に入れられるのは、もっとよけいに苦労できるという可能性だけだ…」』(砂の女 安部公房著 新潮文庫P178~p179)
「砂の女 安部公房著 新潮文庫」は、部落の人につかまって、仕事と家庭を強要される話です。仕事と家庭について悩んだとき、大変有難い本と思います。憶えておきたい内容を挙げてみます。
「砂の不毛は、ふつう考えられているように、単なる乾燥のせいなどではなく、その絶えざる流動によって、いかなる生物をも、一切うけつけようとしない点にあるらしいのだ。年中しがみついていることばかりを強要しつづける、この現実のうっとうしさとくらべて、なんという違いだろう。」(P16)
「負わなければならない義務は、すでにあり余るほどなのだ。こうして、砂と昆虫にひかれてやって来たのも、結局はそうした義務のわずらわしさと無為から、ほんのいっとき逃れるためにほかならなかったのだから…」(P41)
「ぼくは、人生に、よりどころがあるという教育のしかたには、どうも疑問でならないんですがね… (…)
つまり、無いものをですね、あるように思いこませる、幻想教育ですよ… 」(P94)
「けっきょく世界は砂みたいなものじゃないか…砂ってやつは、静止している状態じゃ、なかなかその本質はつかめない…砂が流動しているのではなく、実は流動そのものが砂なのだという…
自分自身が、砂になる…砂の眼でもって、物をみる…一度死んでしまえば、もう死ぬ気づかいをして、右往左往することもないわけですから…」(P95)
「片道切符しか持っていない人種の、靴の踵は、小石を踏んでもひびくほどちびている。もうこれ以上歩かされるのは沢山だ。歌いたいのは、往復切符のブルースなのだ。片道切符とは、昨日と今日が、今日と明日が、つながりをなくして、ばらばらになってしまった生活だ。」( P155)
注)Got a one way ticket to the blues という歌が1960年に流行った様です。
「風景がなければ、せめて風景画でも見たいというのが人情というものだろう。だから、風景画は自然の希薄な地方で発達し、新聞は、人間のつながりが薄くなった産業地帯で発達したと、何かの本で読んだことがある。」(P78)
「新聞記事も、相変わらずだった。どこに一週間もの空白があったのやら、ほとんどその痕跡さえ見分けられない。これが外の世界に通ずる窓なら、どうやらそのガラスは、くもりガラスで出来ているらしい。(…)
欠けて困るものなど、何一つありはしない。幻の煉瓦を隙間だらけにつみあげた、幻の塔だ。もっとも、欠けて困るようなものばかりだったら、現実は、うっかり手もふれられない、あぶなかっしいガラス細工になってしまう…要するに、日常とは、そんなものなのだ…だから誰もが、無意味を承知で、わが家にコンパスの中心をすえるのである。」(P89)
「しかし、おびえてはいけない。漂流者が、飢えや渇きで倒れるのは、生理的な欠乏そのものよりも、むしろ、欠乏にたいする恐怖のせいだという。負けたと思ったときから、敗北ははじまるのだ。」(P119)
「下を見るな、下を見てはいけない!
登山家だろうと、ビルの窓拭きだろうと、テレビ塔の電気工だろうと、サーカスのブランコ乗りだろうと、発電所の煙突掃除夫だろうと、下に気をとられたときが、そのまま破滅のときなのだ。」(P164)
「納得がいかなかったんだ…まあいずれ、人生なんて、納得ずくで行くものじゃないだろうが…しかし、あの生活や、この生活があって、向こうの方が、ちょっぴりましに見えたりする、…このまま暮らしていって、それがどうなるんだと思うのが、一番たまらないんだな…どの生活だろうと、そんなこと、分かりっこないに決まっているんだろうけどね…まあ、すこしでも、気をまぎらせてくれるものの多い方が、なんとなく、いいような気がしてしまうんだ…」(P198)
「気持ちを乱されないために、あれ以来、新聞もなるべく、読まないですませられるように努力した。一週間も辛抱していると、さほど読みたいとも思わなくなった。1カ月後には、そんなものがあったことさえ、忘れがちだった。いつか、孤独地獄という銅版画の写真を見て、不思議に思ったことがある。一人の男が、不安定な姿勢で、宙に浮び、恐怖に眼をひきつらせているのだが、その男をとりまく空間は、虚無どころか、逆に半透明な亡者(もうじゃ)たちの影で、身じろぎも出来ないほど、ぎっしり埋めつくされているのだ。亡者たちは、それぞれの表情で、他を押しのけるようにしながら、絶え間なく男に話しかけている。どういうわけで、これが孤独地獄なのだろう?題をつけ違えたのではないかと、その時は思ったりしたものだが、いまならはっきり、理解できる。
孤独とは、幻を求めて満たされない、渇きのことなのである。」(P202)
「男が、繰返される砂との闘いや、日課になった手仕事に、あるささやかな充足を感じていたとしても、かならずしも自虐的とばかりは言いきれない。そうした快癒のしかたがあっても、べつに不思議はないのである。」(P203)
「穴の中にいながら、すでに穴の外にいるようなものだった。振向くと、穴の全景が見渡せた。モザイックというものは、距離をおいて見なければ、なかなか判断をつけにくいものである。むきになって、眼を近づけたりすると、かえって断片のなかに迷いこんでしまう。一つの断片からは抜け出せても、すぐまた別の断片に、足をさらわれてしまうのだ。どうやら、これまで彼が見ていたものは、砂ではなくて、単なる砂の粒子だったのかもしれない。
あいつや、同僚たちについても、そっくり同じことが言えた。(…)そんな部分ばかりが、やたらと真近にせまって、彼に吐き気をもよおさせてしまうのだ。だが、広角レンズをつけた眼には、すべてが小ぢんまりした、虫のようにしか見えなかった。あそこを這いまわっているのは、教員室で番茶をすすっている同僚たちだ。(…)しかも、すこしの嫉妬もまじえずに、その小さな虫たちを、菓子型のようだと思ったりする。菓子型には輪郭があるだけで、中身はない。だからと言って、それに合わせて、たのまれもしない菓子を焼かずにいられないほど、律儀な菓子職人である必要もないわけだ。もし、もう一度、関係を回復することがあるとしても、それはすべてを御破算にしてからのことである。砂の変化は、同時に彼の変化でもあった。彼は、砂の中から、水といっしょに、もう一人の自分をひろい出してきたのかもしれなかった。」(P224~P225)
「べつに、あわてて逃げだしたりする必要はないのだ。いま、彼の手のなかの往復切符には、行先も、戻る場所も、本人の自由に書きこめる余白になって空いている。それに考えてみれば、彼の心は、溜水装置のことを誰かに話したいという欲望で、はちきれそうになっていた。話すとなれば、ここの部落のもの以上の聞き手は、まずありえまい。今日でなければ、たぶん明日、男は誰かに打ち明けてしまっていることだろう。
逃げるてだては、またその翌日にでも考えればいいことである。」(P227~P228)
注)砂の眼でもって物をみる。一歩引いて俯瞰する。学生なら教室、会社員なら職場など、あまりにちっぽけな領域です。そのちっぽけな領域の砂の粒子に心を惑わすのは、他人から見れば馬鹿らしいかもしれません。また、自分の生活に自信があれば、嫉妬などしないし、他人の意見に動じることはないかもしれません。
(6)自分の変化
<砂の女>の男は、当初嫌がっていた砂掻きの生活を通して溜水装置を発見したのです。
「いいですか…確かに砂掻きは、大事なことだ…しかし、それは手段であって、目的ではない…目的は、いかにして砂の脅威から生活を守るかだ…ね、そうでしょう?…さいわいぼくは、砂についての多少の研究もつんでいる。」(砂の女 安部公房 新潮文庫P145)
「こんな、砂掻きなんか、訓練すれば、猿にだって出来ることじゃないか…ぼくには、もっと、ましなことが出来るはずだ。」(P147)
「彼の心は、溜水装置のことを誰かに話したいという欲望で、はちきれそうになっていた。」(P202)
辛くて単調な仕事と生活に見えても、長い時間で見ると、砂の様に職場も生活も自分も変化しています。
特に、自分の変化は重要です。
自分の変化について、a)キルケゴールとb)ニーチェの有難い考え方を参考にしたいです。
a)『死に至る病』(キルケゴール 岩波文庫 斎藤信治訳)
『人間とは精神である。精神とは何であるか?精神とは自己である。自己とは何であるか?自己とは自己自身に関係するところの関係である。
人間は有限性と無限性との、時間的なるものと永遠的なるものとの、自由と必然との、綜合である。』(P20)
『自己は、無限性と有限性との意識的な総合であり、自己自身に関係するところの綜合である。自己の課題は自己自身となるにある、ーこれは神への関係を通じてのみ実現せられうるのである。ところで自己自身となるというのは具体的になることの謂(い)いである。だが具体的になるというのは「有限的になる」ことでも「無限的になる」ことでもない、ーなぜなら具体的となるべきものは実に綜合なのであるから。そこで発展は次の点に存しなければならない、ー自己を無限化することによって自己を無限に自己自身から解放すると同時に、自己を有限化することによって自己を無限に自己自身へと還帰せしめること。自己がそういう仕方で自己自身とならない限り、自己は絶望状態にある、ー自己がそのことを知っているといなとにかかわらず。ところで、自己は、それが現存しているおのおのの瞬間において、生成の途上にある。なぜというに「可能的なるものとしての」自己は現実的にそこにあるのではなく、どこまでも現実化すべきものとしてあるにすぎないのだから。そこで自己がそれ自身にならない限り、自己はそれ自身であるのではない、そして自己がそれ自身でないということが絶望にほかならないのである。』(P46,47)
注1)
有限性(世間的な事柄との関係に自己をおくこと)と無限性(想像力によって、抽象的理想を想像するが、現実からは遠ざかること)
時間的なるもの(=地上的なもの:生を終えるときに失われるもの、心と身体)と永遠的なるもの(=神的なもの:生を終えるときにも存在し続ける何か、人の内にあって信仰を生み成長させると言われるキリスト教の聖霊)
自由(=可能性:想像力によって自己の無限の可能性を思うこと)と必然性(自分自身の限界)
注2)
自己とは自己自身に関係する(この関係は自己が綜合の内容を決める態度決定)ところの関係(この関係は、綜合)
以下、絶望の段階(①⇒②⇒③⇒④)について。
①、②は非本来的絶望であり、自己が『永遠的なもの』をもっているという意識を欠いている絶望。それゆえにこの絶望は無意識的である。
①絶望して、自己をもっていることを意識していない場合
『ことにもし私が最高の意味での冒険(最高の意味での冒険とは自己自身を凝視することにほかならない)を避けて通った卑怯さのおかげで、あらゆる地上的な利益を獲得することはできたが、ー自己自身はこれを喪失したとしたら?
有限性の絶望というのはまさにこういうものである。こういうふうに絶望している人間は、そのためにかえって具合よく(本来、絶望しておればおる程いよいよ具合が好いのである)世間のなかで日を送り、人々から賞賛され、彼等の間に重きをなし、名誉ある位置につき、そしてこの世のあらゆる仕事に携わることができるのである。世間と呼ばれているものは、もしこういってよければ、いわば世間に身売りしているような人々からだけ出来上がっているのである。彼らは自分の才能を利用し、富を蓄積し、世間的な仕事を営み、賢明に打算し、その他いろいろなことを成し遂げて、おそらくは歴史に名が残りさえもする、』(P55,56)
②地上的なるものないし地上的なる或る物に関する絶望
『この男の標語は、「帝王か然らずんば無」であるーが帝王にならない場合、彼はそれについて絶望する。だが、そのことの真の意味は別の所にある、ーすなわち彼は帝王にならなかったが故に、彼自身であることが耐ええられないのである。だから彼は本当は自己が帝王にならなかったことに絶望しているのではなしに、帝王にならなかった自己自身に絶望しているのである。(P30)
この形態の絶望は、絶望して自己自身であろうと欲しないことである、ー或いはまた、もっとさがって、絶望して一般にもはやいかなる自己でもあろうと欲しないことである、ないしはまた、これは最低だが、絶望して自己自身とはもっと別の人間でありたいと欲すること、新しい自己でありたいと願うことである。』(P85,86)
③、④は本来的絶望であり、自己が『永遠的なもの』をもっていることを意識している絶望である。弱さ(③)や強情(④)故に、本来的な自己自身であろうと意志しないで、非本来的な自己自身を意志する。
③永遠的なるものについての絶望ないしは自己自身に関する絶望-弱さ(逃避)
『肉体は肉体の病によって食い尽されることがあっても、魂は魂の病(罪)によって食い尽されるということはありえないという点から、ソクラテスは魂の不死を証明した。同様に我々は、絶望は人間の自己を食い尽すことができないものであり、そしてそのことにこそ絶望の自己矛盾的な苦悩が存するという点から、人間のうちに永遠者の存することを証明しえよう。もし人間のうちに永遠者が存しなかったならば、人間は絶望しえなかったであろう。絶望がもし人間の自己を食い尽しえたとするならば、人間は絶望する必要がなかったであろう。』(P33)
『彼は地上的なる或る物に関して絶望しているつもりでおり、いつも自分がそれに関して絶望しているものについて語るのであるが、実は彼は永遠的なるものについて絶望しているのである、ーというのは彼が地上的なるものにかくも大きな価値を置くこと(もっと詳しくいえば、彼が地上的なる或る物に非常に大きな価値を置いて第一にそれを地上的なるものの全部のように考えること、第二に地上的なるものそのものに非常に大きな価値を置くこと)、それがすなわち永遠的なるものについて絶望していることにほかならない。』(P99,100)
『ここには度の高まりが存する。第一に、自己についての意識のうちにそれが見られる。というのは、永遠的なるものについて絶望するということは、自己についての観念ー自己のうちには何かしら永遠的なるものが存するということ、ないしはまた自己が何かしら永遠的なものを自己のうちにもっていたということーを有することなしには不可能である。また人間が自己自身に関して絶望しうるためには、彼は自分が自己をもっているということを意識していなければならぬはずである。』(P101)
『この絶望は、絶望して自己自身であろうと欲しないという形態へと還元せられる。ちょうど父親が自分の息子を勘当するときのように、自己はそのように弱くなってしまった自己を自己自身であると認める気にはなれない。(P102)
〔息子を勘当したという〕外的な事実は父親にとってほとんど何の役にもたたない、それによって息子から解放されたのではなしに彼は依然として息子のことを想いつづけるのである。ー絶望せる自己の自己自身に対する関係もまたこのようなものである。』(P103)
④絶望して自己自身であろうと欲する絶望ー強情(反抗)
『最初に地上的なるものないしは地上的なる或る物に関する絶望があり、次に永遠者についてのないし自己自身に関する絶望がある。それから強情が現れてくるが、これは本来永遠者の力による絶望である。換言すれば人間が絶望的に自己自身であろうとして自己のうちなる永遠者を絶望的に乱用するのである。』(P110、111)
『絶望者は今や彼の絶望が外界の圧迫のもとにおける受動的な悩みとして外からくるのではなしに、自己の行為として直接に自己から来るのであることを意識するに至る。』(P111)
『自己は自己の無限なる形式であるが故に絶望的に自己自身を意のままに処理しようと欲する、いな自己自身を創ろうと欲する、ー彼は自分の自己を自分がそれであろうと欲する自己に創ろうと欲し、自分の具体的自己のなかに持ち込みたいものと持ち込みたくないものとを自分で規定しようと欲する。』(P112)
〈自己が行動的〉
『絶望せる自己が行動的なものである場合には、それは本来いつも単に実験的にのみ自己自身に関係している、』(P113)
『絶望せる自己は神が人間を見ているということの代わりに自分で自分を見ていることに満足している、』(P113)
『派生的な自己は、自己が自己を見ることによっては自己自身以上のものを自己に与えることはできない。』(P113)
『行動の全体は、ひとつの思想がどれほど長く追及されるにしても、いつも或る仮定の内部に止まっている。』(P114)
〈自己が受動的-悪魔的〉
『絶望せる自己が受動的なものである場合でも、絶望はやはり自己が絶望的に自己自身であろうと欲する絶望である。絶望して自己自身であろうと欲するところのかかる実験的自己は、自分の具体的自己のなかで予め自己の方向を見定める場合、おそらくはこのもしくはかの困難に、キリスト者が十字架と呼ぶでもあろうような或る根本的な障害(それがどのような種類のものであろうと)に衝き当る。その場合否定的な自己すなわち自己の無限な形式はおそらく始めはまずその十字架をきれいさっぱりととりのけてしまおうと考え、あたかもそういう障害が全然そこに存在しないかのように、自分はそんなもののことは何も知らないかのように振舞うことであろう。』(P115)
『しかしそれは彼には成功しない。彼の実験の技量はまだそこまでは達していない、』(P116)
『前に地上的なるものないし地上的なる或る物に関して絶望するところの絶望形態は結局のところ(そこでも示された通り)永遠者についての絶望にほかならなぬ所以が叙述された、ーすわなちそこでは永遠者が何の慰めにもなりえない程に地上的なるものが高く評価される結果、人間は永遠者にとって慰められかつ癒されることを欲しないのである。しかし地上的なる苦悩現世的なる十字架が取り除かれるという可能性に人間が希望を持とうとしないのも、これもまた絶望の一つの形態である。絶望して自己自身であろうと欲しているこの絶望者は、そういう可能性に希望を持とうとは欲しない。肉体のこの刺(それが現実的なものであるにしろないし彼の熱情が彼にそう思いこましているようなものであるにしろ)は自分のうちに非常に深くささりこんでいるのでとうていそれを引き抜くことはできないものと彼は確信している。そこで彼はいわばそれを永遠に自分の身に引受けようと欲するのである。彼はその刺に憤激を感じている、ないしもっと正確にいえば、彼はその刺を機縁として全存在に憤激を感じている、そしていまやその刺にもかかわらず彼自身であろうと欲する、』(P116)
『とにかく彼は救助を求める限り彼自身であることを放棄しなければならない。このような屈辱に比すれば、よし彼がいま抱いている苦悩が疑いもなくどのように数多く、そして深刻であり、またいつ果てるとも知れないほどのものであるにしても、それはまだしも彼にとっては耐ええられるのであり、したがって、自己はもしこのまま彼自身として存在することさえ許されるならばむしろこの苦悩の方を選ぶのである。』(P118)
『絶望して自己自身であろうと欲するところの自己は、いかにしても自分の具体的自己から除き去ることも切り離すこともできない何等かの苦悩のために呻吟する。さて当人はまさにこの苦悩に向かって彼の全情熱を注ぎかけるので、それがついには悪魔的な狂暴となるのである。』(P119)
『彼は自分の具体的自己からの無限の抽象をもって始めた、しかるに今や彼はついにそのような仕方で永遠となることはとうてい不可能であるまでに具体的となった、ーにもかかわらず彼は絶望的に彼自身であろうと欲するのである。』(P119-120)
『絶望も、精神的になればなるだけ、そのかげに絶望が潜んでいようとは普通なら誰にも思いつかないような外観のなかに住むように心を配るのである。隠れているというこのことはたしかに何かしら精神的なものであり、いわば現実の背後にひとつの密室、全くの自分だけの世界、を確保するためのひとつの手段である、ーこの世界のなかで絶望せる自己はあたかもタンタロスのように休みなく自己自身であろうとする意欲に没頭しているのである。』(P121)
『彼は自己の存在を憎悪しつつしかも彼自身であろうと欲するのである、みじめなままの自己自身であろうとするのである。彼が彼自身であろうと欲するのは単なる強情の故にではなく、むしろ挑戦せんがためである。』(P121)
注)『肉体のこの刺』ですがツァラトゥストラのせむしのこぶに似ている気がします。『せむしからそのこぶを取ると、せむしは知恵がなくなる、ーこれは民衆のあいだにすでに行われている説である。』ツァラトゥストラはこう言った(上)(ニーチェ著 氷上英廣訳 岩波文庫 P239)
別の訳があるみたいで、私は、こちらの方が分かり易い感じがしました。「せむしからその背のこぶを取り除くならば、それは彼の精神を取り去ることになるーこれは民衆が私に教えてくれた知恵だ。」
ところで、死はたいへん怖いですが、以下の様な過酷な状況でもやっぱり、生きたいと思うかどうか。
個人的には、死の一時間前なら、生きたいと願います。しかし、日常において問われたら、死んだ方がましだと思う様な気がします。例えば、スカイダイビングをやってみたいと思っても、いざ飛行機から飛ぶ段になると、初心者は尻込みしそうな気がします。同様に、日常に考える死に比べ、一時間前の死は強烈に怖いと思います。
『《何かで読んだことがあった。ある死刑囚が、死の一時間まえに、どこか高い絶壁の上で、しかも二本の足をおくのがやっとのようなせまい場所で、生きなければならないとしたらどうだろう、と語ったか考えたかしたという話だ、ーまわりは深淵、大洋、永遠の闇、永遠の孤独、そして永遠の嵐、ーそしてその猫の額ほどの土地に立ったまま、生涯を送る、いや千年も万年も、永遠に立ちつづけていなければならないとしたら、ーそれでもいま死ぬよりは、そうして生きているほうがましだ!生きていられさえすれば、生きたい、生きていたい!どんな生き方でもいい、ー生きてさえいられたら!……なんという真実だろう!これこそ、たしかに真実の叫びだ!人間なんて卑劣なものさ!その男をそのために卑劣漢よばわりするやつだって、やっぱり卑劣漢なのだ》』
(罪と罰 上 ドストエフスキー著 工藤精一郎訳 新潮文庫 P274)
もうひとつ、救われるようなお言葉。
『人間が真に人間であることを自覚するのは、人間が思想をもつ者であると知らされたときである。あるいは、こうもいえよう。人間が思想に生きる存在だと知ったとき、初めて人間に生まれた喜びを抱くことができるし、また有限の自己を超えて永遠無限の自己を把握することが可能となる。一歩一歩、真実の自己とは何か、自己はいかに生きるべきかを知らされていく生活こそ、人間にとって、もっとも願わしい生活だといえる。』(歎異抄を読む 早島鏡正 講談社学術文庫 P35)
b)ツァラトゥストラはこう言った(上)(ニーチェ著 氷上英廣訳 岩波文庫)
『わたしはあなたがたに、精神の三段の変化について語ろう。どのようにして精神が駱駝となるのか、駱駝が獅子となるのか、そして最後に獅子が幼な子になるのか、ということ。
精神にとって多くの重いものがある。畏敬の念をそなえた、たくましく、辛抱づよい精神にとっては、多くの重いものがある。その精神のたくましさが、重いものを、もっとも重いものをと求めるのである。
(…)
こうしたすべてのきわめて重く苦しいものを、忍耐づよい精神は、その身に引きうける。荷物を背負って砂漠へいそいで行く駱駝のように、精神はかれの砂漠へといそいで行く。
(…)
しかし、もっとも荒涼たる砂漠のなかで第二の変化がおこる。ここで精神は獅子となる。精神は自由をわがものにして、おのれの求めた砂漠における支配者になろうとする。
精神はここで、かれを最後まで支配した者を探す。精神はかれの最後の支配者、かれの神を相手取り、この巨大な竜と勝利を賭けてたたかおうとする。
精神がもはや主たる神と呼ぼうとしないこの巨大な竜とは、なにものであろうか?この巨大な竜の名は「汝なすべし」である。だが獅子の精神は「われは欲する」と言う。
獅子の精神の行く手をさえぎって、この有鱗類の「汝なすべし」が、金色燦然と横たわっている。鱗の一枚一枚に「汝なすべし」が金色にかがやいている。
千年におよぶもろもろの価値が、この鱗にかがやいている。
「いっさいの価値はすでに創られてしまっている、ーいっさいの価値ーそれはこのわたしなのだ。まことに、もはや『われは欲す』などはあってはならない!」こう竜は言う。
(…)
新しい価値を創造する、ーそれは獅子にもやはりできない。しかし新しい創造のための自由を手にいれることーこれは獅子の力でなければできない。
(…)
しかし、わが兄弟たちよ、答えてごらん。獅子でさえできないことが、どうして幼な子にできるのだろうか?どうして奪取する獅子がさらに幼な子にならなければならないのだろうか?
幼な子は無垢である。忘却である。そしてひとつの新しいはじまりである。ひとつの遊戯である。ひとつの自力で回転する車輪。ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である。
そうだ、創造の遊戯のためには、わが兄弟たちよ、聖なる肯定が必要なのだ。ここに精神は自分の意志を意志する。世界を失っていた者は自分の世界を獲得する。』(P37~p40)
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