昭和の時代、米TVの輸入人気番組は、タイムトンネル、巨人の惑星、宇宙家族ロビンソン、宇宙大作戦(スタートレック)です。小さい頃見て、本当にワクワクしました。
タイムトンネルは、色々な時代に移動してしまうドラマです。
SFの世界のタイムトンネル、タイムトラベル、タイムマシーンは、過去や未来に移動することができます。
本当に、そんなことが可能でしょうか。物理学上、相対性理論により、光を超える速度で移動すれば、時間を逆行できると言えます。しかし、質量がゼロでないと光速には達せることができないため、結果、過去への移動は不可能との結論です。物理学的には、時間移動が不可能となります。ところで、タイムマシンなどの時間移動が可能かどうかの前に、そもそも時間とは何かについて、考える必要の方が重要であると思います。
有難いことに日本の色々な先生方が時間に関しても説明してくれています。
まず、時間を理解するためには、アキレスと亀のパラドックスが大事な様です。このパラドックスには、いくつかのパターンがあります。どれも不思議です。なぜか数式では説明された様に見えても、感覚的?には納得できないのです。また、アリストテレスの時間解釈について考えることも大事ではないかと思われます。
更に、時間について考えると自己同一について新たな疑問が生じます。
(1)時間
アリストテレスの時間解釈は、物理学的時間とは異なる解釈です。物理学の教育を受けた現代人にとって、少し異質な感じを受けますが、私は、この考えが一番納得できます。
アリストテレスは、時間は、瞬間の集まりからなるのではない。言い換えれば、「瞬間は、時間の一定部分・構成要素ではない。」瞬間をいくら集めても時間は生まれない。(時間は実存するか 入不二基義著 講談社現代新書 p19)
「時間とは、前と後に関しての運動の数である。」(・・・)
もし霊魂が存在しないとしたら、果たして時間は存在するのだろうか、しないのだろうか、これが疑問とされよう。なぜなら、数える者の存在することが不可能である場合には、数えられ得るなにものかの存在することも不可能であるからにして、したがって、明らかに、数もまた存在すること不可能であろうから。(・・・) 霊魂が存在しない限り、時間の存在は不可能であろう、そしてただ時間の基体たるもの「運動」のみが「時間なしに」存在可能であろう。
「霊魂が存在しないかぎり、時間の存在は不可能であろう」とアリストテレスは言っている。すなわち、時間の存在は、心による数える働きに依存している。その働きが存在しないところでは、時間は存在しない、ということである。(時間は実存するか 入不二基義著 講談社現代新書 P36~p37)
似た様な考えとして、「生物が絶滅しても夕焼けは赤いか」という疑問があります。
見るものがいなくとも夕焼けは色を持つか。(…)色は対象そのものの性質ではなく、むしろ、対象とそれを見るものとの合作とでも言うべきではないか。それゆえ、見るものがいなくなったならば、物は色を失う。世界は本来無色なのであり、色とは自分の視野に現われる性質に他ならない。そう思わないか?(哲学の謎 野矢茂樹著 講談社現代新書 P12~13)。
運動の違いは、ニュートン力学では、速度と加速度だと思いますが、これら運動の違いを明確にするために、時間の概念が必要です。
物理学は、時間という概念を導入することにより、物体の運動を予測することができます。もしかしたら、時間というのは、物体の運動を予測するために、人間が考えた存在しない概念なのかもしれません(数学者は、無限次元のベクトル空間など、存在しないものを、便利な道具として考案します。不思議な道具を考案することにより、考え方が明確になるからです。これら数学的不思議な道具が、現実に存在するとは限りません。あくまでも、物事の考え方を明確にしてくれる道具だと思います。例えば、可能世界という数学の考え方があったとしても、実際に無限の世界が存在するとは信じられません。世界線、パラレルワールドとか、SFの世界では楽しいのですが現実には存在しないと思います。但し、一方では、多次元空間はあるかもしれないと思ってしまうのも事実です。宇宙の外があると思ってしまうからです。外があるとしたら、それは、3次元でなく、多次元でしかありえないと思ってしまうからです(内外<ウチ><ソト>に関する問題として、メビウスの輪があります。メビウスの輪は、2次元を3次元で変形してやれば裏表がなくなり、クラインの壺は、3次元を4次元で変形してやれば内外がなくなるという内容でしょうか?)。
注)クラインの壺
この「4次元版クラインの壷」はどんな形をしているのでしょうか。
ネットなどで、4次元の形状をイメージする動画などありますので、見てみると大変面白いと思います。
kaz works:Dimensions ・https://www.youtube.com/watch?v=QjdoTOjR6lg
森川浩:クラインの壺 ・http://v.rentalserver.jp/morigon.jp/Repository/SUBI0/sya.html
(2)今
今について先生方の見解を記載します。
ある存在者Pが世界全体を正確に知覚しそれを記述しえたとしよう。しかし、Pに想起能力がなければ、Pは時間をとらえることができない。その正確な世界記述においては、(物理学のように)時間は実数無限の点からなる直線tによって記述されている。Pはこの新たなtが世界の距離を構成する3つのベクトルx・y・zとは別の第4のベクトルであることは了解できたとしても、時間を了解していることにはならない。なぜなら、Pはt1とt2という2つの時間位置の差異は了解できても、そのいずれが<いま>であるのか、あるいはそのいずれも<いま>ではないのか、ということを了解することができないからである。(時間論 中島義道 ちくま学芸文庫 P44)
時間は、「永遠性の動く似姿」とされる。そして、時間の中にあるものは、「あった」「ある」「あるだろう」と語られるが、永遠の存在は、「あった」「あるだろう」と言われず、「ある」とのみ言われる。「ある」と現在形でのみ語られるこの永遠性は、『現在としての永遠性』と呼ぶことができる。
(ハイデガー入門 細川亮一 ちくま新書 P229)
永遠の現在・永遠の今を「とりあえずの無時制性」の極限として理解する。
(時間は実在するか 入不二基義 P244)
この此岸から彼岸への、現世から天上への境界線上の輝かしい光景は、注目すべきことに、ドストエフスキー自身がかつて体験した死刑執行直前の死刑囚の体験とも酷似している。彼は、ムイシュキンの口を借りて、それをこう描写する。
「いよいよ残り五分ばかりで、それ以上命はないというときになりました。当人のいうところによりますと、この五分間が果てしもなく長い期限で、莫大な財産のような思いがしたそうです。…刑場からほど遠からぬところに教会堂があって、その金色の屋根の頂きが明らかな日光に輝いていたそうです。彼はおそろしいほど執拗にこの屋根と、屋根に反射して輝く日光をながめていて、その光景から目を離すことができなかったと申します。この光線こそ自分の新しい自然である。いま幾分かたったら、なんらかの方法でこの光線と融合してしまうのだ、という気持ちがしたそうです。」
これは死の直前の、生から死への参入の体験というよりは、むしろ死の世界へ一歩足を踏み入れた人が、死の側から生を見ている体験だといってもよいだろう。(…)つまりそこでは、日常の生の世界とはまったく別種の、それとは絶対に比量しえない「時間」が支配していて、この別種の「時間」の相のもとに生が照らし出された姿が、アウラ体験なのである。
永遠が日常性と重なって意識されるとき、それはかならず、永遠の瞬間、永遠の現在という姿をとる。(…)
いまが以前と以後、いままでといまから、ひいては過去と未来という互いに交換不可能な二つの方向に分極し、そのことによって絶えず走り去るものとして意識されるのは、いまを意識しているわれわれの個別的生命の有限性のためである。なんらかの事情によってこの有限性が止揚され、個別的生命が無限の普遍的生命に触れる瞬間には、いまはもはやそのような前後の方向性を失って、なにものも到来せずなにものも過ぎ去ることのない瞬間として、永遠の停止として意識されるに違いない。 (時間と自己 木村敏 中公新書 P146~148)
(3)過去
過去自体は普通の意味ではまったく保存されていない。保存されているのはせいぜいその「痕跡」である。(…)過去自体は一滴も保存されていないのですから、どうあがいてもそこへはトラベルできないはずなのです。(時間を哲学する 中島義道 講談社現代新書 P94)
身体という複雑な箱を見てみるに、一方でこの箱の<ソト>に向かって目・鼻・耳・口・皮膚など感覚器官はことごとく備え付けられているので、箱の<ソト>こそ直接知覚できる場所であり、身体の<ウチ>は直接知覚できない場所です。他方、われわれは、独特の内部感情をもって身体の<ウチ>に住みついており、身体こそ自分が位置する場所です。つまり、われわれは完全に箱の<ウチ>に入っているのではなく、箱の<ソト>から箱を観察しているのでもない。箱の<ウチ>に「住みついて」おり、箱を「生きて」おりながら、たえず直接箱の<ソト>を観察し続けているような独特なねじれた存在者なのです。 (時間を哲学する 中島義道 講談社現代新書 P103)
(…)過去の痕跡が大脳に蓄積されているという「お話」を生み出している。どの心理学的記憶論においても、ある情報が外部からわれわれの身体の中に入り込み「しばらくすると」、われわれはその過去の情報にもとづいたある行動様式をとるように変化している。これが、すべてなのですが、外界には過去を蓄積しておく場所はないと決めつけておりますので、過去の「ありか」は身体の中にしか求められない。しかも、過去自体は「過ぎ去っている」のだから、その「痕跡」が身体の中にとどまっているというわけです。 (時間を哲学する 中島義道 講談社現代新書 P109)
過去はどこへ「行った」のでもない。「もはやない」ものとして<今ここ>にあるのです。
過去とは何であるかを想い起こしてみると、それは同時に「不在への態度」が開かれる場であり、自分の直接的体験を単なるとっかかりにして言語的=意味的世界を構成することなのですから、ビッグバンが「あった」ことを私が承認することは、昨日起こったはずの直接観察しない膨大な事象を私が承認することとまったく変わらないのです。 (時間を哲学する 中島義道 講談社現代新書 P167)
「過去をわれわれが意識するのは、過去そのものがわれわれを引っ張るからではなしに、われわれの現在の欲求、あるいは未来をわれわれがどう生きたらよいかという期待に応じて、そのたびごとに過去が違った形でわれわれの前に姿を現すからだともいえよう。つまり、定まった過去像があるのではなしに、現在の関心が過去に対するイメージを決定する場合が多い。」(ニーチェとの対話 西尾幹二 講談社現代新書同 P198)
「過去という動かぬ完結体があるのではなしに、私たちの今の目に映った過去像があるにすぎない。」(同 P199)
(4)自己同一
アキレスと亀のパターンの一つに色の変化があります。花の色の変化について考えてください。色が白から赤へ変化していくように見える花も、各瞬間には、特定の一つの色だけをもっている。そしてどの瞬間についても同じことが言える。そこで、花はどの時点でも特定の一つの色だけを持っており、一つの色だけでは、色の変化は存在しえない。さらに変化のない色をすべて集めても、そこには変化などは起こらない。見かけの上で、色に変化が生じているかのように感じられるだけで、変化はほんとうは存在しない。(時間は実存するか 入不二基義著 講談社現代新書 p16~P17)
変化は存在しないとしたら、自己同一について新たな疑問が生じます。
昨日の自分と今日の自分について、細胞は、時々刻々と再生して変化しています。また、睡眠をとって意識も中断しています。でも、なぜか、昨日と今日の自分は、自己同一と感じてしまいます。また、昨日白かった花と今日赤になった花は、自己同一と感じています。色が違うのになぜ、自己同一と思うのか。自己同一とは、何なのか分からなくなってきます(類似の疑問としては、スタートレックの転送について、転送前のスポックと転送後のスポックは自己同一なのでしょうか。また、ドラえもんの、どこでもドアについて、ドアをくぐる前の、のび太は死んで、新しく創生されたのび太が、ドアの向こうに生じる。しかし自己同一ののび太が存在する。)
(5)常識的日常性の世界の3原理
常識的日常性の世界とは、私たちのだれもが普通特別な反省なしにその中に住みつき、その中で生活を送り、その中でものを見たり考えたりしている世界である。(異常の構造 木村敏 講談社現代新書 P108)
木村敏先生は、この世界には、3原理があると言っています。
(a)個物の個別性
それぞれのものが一つしかないということ。ひとつひとつのものはすべてそれ自身の独自の存在を有していて、それとは別のものが外見上どのようにそれに似ていていようとも、その存在の個別性という点において他からは絶対的に区別されている。(異常の構造 木村敏 講談社現代新書 P109)
この万年筆とあの万年筆とが同じ一つの万年筆だというようなことは決してない。
(b)個物の同一性
それぞれのものは、いついかなるときにも、いかなる場所におかれても、それ自身であることに変わりはなく、それ自身ではない別のものになることはない。 (異常の構造 木村敏 講談社現代新書 P111)
これが、(4)で述べた自己同一のことである。
(c)世界の単一性
ここで言う世界は、人間の考えうるかぎりでの時間的空間的領域のすべてのことであり、私たちのいかなる行動も、いかなる思考も、けっしてそれの外にでることのないような存在の場のことである。
私が現在ここにいるこの世界は、私意外のだれもがやはりその中にいるところの世界である。私たちはすべて同じ一つの世界の中にいる。 (異常の構造 木村敏 講談社現代新書 P115~116)
(6)日常世界の世界公式
上記3原理は単一の公式で表現すると「1=1」である。これが私たちの世界公式にほかならない。
フィヒテは、「いかなる人も承認して、いささかも意義をとなえない、完全に確実で疑問の余地のないものと認められている」ような命題。「AはAである」は、「もしAが私のうちに定立されているなら、それならAは定立されている、あるいは、それならAはある」を表していることになる。Aが私のうちに定立されていることによってのみAはある、ということは、私のうちには常にそれ自身に同一なあるものがあるということである。そして、このAの自己同一が、この「である」が可能であるためには、私自身がつねにそれ自身に同一なものとして定立されていなくてはならない。つまり、「である」はまた、「私は私である、ということとしても表わされる。」このようにして、フィヒテは、「AはAである」という命題を媒介として、「端的に無制約なる第一の基本命題」として「私は、根源的に端的にそれ自身の存在を定立する」という命題に到達した。 (異常の構造 木村敏 講談社現代新書 P120~121)
私たち「正常人」は、常識的日常性に属する合理的思考の枠から逸脱した思考様式をまったく理解することができない。私たちは、「1=1」の公式に基いた理論を理解する能力しか持ち合わせていない。これはむしろ、私たちの思考能力の著しい狭さと偏りとを示すものに他ならない。「正常人」とは、たった一つの窮屈な公式に拘束された、恐ろしく融通のきかぬ不自由な思考習慣を負わされた、奇形的頭脳の持ち主だとすらいえるかもしれない(異常の構造 木村敏 講談社現代新書 P141)。
(7)新しい時間のイメージ
数直線で表す時間というのは、物理学的に便利な道具としての概念であって、存在しないのかもしれません。
同様に、自己同一という考えも、社会的に生きて行くための便利な道具であって、思い込みなのかもしれません。
これらを踏まえると以下の中島先生の仰る内容が少し理解できる気がします。
自己同一的・客観的・実在的世界およびそれを貫通している客観的・直線的時間をまったく「ない」とみなすことによって、われわれはそのつど新たなものが湧き出す現場としての<いま>すなわち「瞬間」が特別のものに思われてくる。どこからともなく、そのつど絶対的に新たなことが湧き出しているのであり、私はその現場に居合わせているのである。たしかに、私はそのつどの新たなことに意味を付与して、あたかも、「これまで」と「これから」が自然につながる世界に生きているように思われる。しかし、その思いは、やはり自己同一的・客観的・実在的世界を前提しているのであって、私はそのつどの新たなことが「どこから」生じて「どこへ」消えるのか、まったく知らないのである(明るく死ぬための哲学 中島義道 文藝春秋 P95~96)。
【補足1:時間の対称性について】
物理学の法則は明らかに時間に対して可逆的ではない。われわれの知るように、あらゆる現象は大きな規模でみると明らかに不可逆である。”動く手は書き、書き終えて、さらに動きつづける”のである。われわれの知る限りでは、この不可逆性は関与する粒子の数がひじょうに多いことによるものである。もしわれわれが個々の分子を見分けることができるとすれば、装置が前向きに働いているのか、逆向きに働いているのか、確かめることができないであろう。もう少しはっきりさせるために、その中の原子がどんなことをしているかわかるような小さな装置を作り、その中の運動を観測しているものとする。さて、それと同じなもう一つの装置をつくり、その運動を前の装置の終りの状態でスタートさせる。ただし、速度はすべて完全に逆にして。そうすると、完全に逆ではあるが全く同じ運動をすることになる。つぎのようないいかたもできよう。物質の内部の働きまで、すべて詳細に、映画にとったとする。それをスクリーンに映すが、逆まわしにする。どんな物理学者でも”これは物理の法則に反する、なにか間違っている!”ということはできないであろう。もちろん、細部にわたって見ないとなると、事態は完全に明らかである。卵が歩道に落ちて殻の割れるのを見れば、われわれは確かに”それは不可逆だ、もし映画を逆回しにすれば、卵は一つにかたまり、殻はもとの形になる。それは明らかにばかばかしいことだ!”というだろう。しかし、われわれが個々の原子自身を見るとすると、法則は完全に可逆になるだろう。これは、もちろん、ひじょうに苦労して発見されたことであるが、しかし明らかに、基本的な物理学の法則は、微視的なまた基本的な段階にあっては、時間に関して完全に可逆であるというのは、ほんとうのことなのである。(ファインマン物理学Ⅱ 岩波書店 P361~362)
【補足2:ゼノンのパラドックスについて】
①-1 二分法(前進型)
目的地に行く場合、1回目に目的地の1/2に到着する。2回目に更に、残りの1/2に到着する。これを何回も繰り返しても、目的地に到着できない。もし仮に到着できたならば、完結しないはずの自然数すべてを数えたことにもなり、矛盾する。
①-2 二分法(後進型)
目的地に行く場合、目的地の1/2の地点に到着する必要がある。更に、その前の1/2に到着しなければならない。この様に、先に到着していなければならない地点がなければならず、少しも動くことができない。
②アキレスとカメ
アキレスがカメの後方からスタートすると、アキレスがカメを追い越すには、アキレスはカメの出発地点に到着しなければならない。しかし、アキレスがカメの出発地点に到着したとき、カメはカメの出発地点より先の地点まで移動している。アキレスがカメを追い越すにはアキレスはカメが移動した地点に到着しなければならない。しかし、カメは更にその先の地点まで移動する。これは、無限に繰り返される。アキレスがカメを追い越すには無限の地点に達しなければならない。これは不可能である。
③飛ぶ失
飛んでいる矢はある時間にある空間に存在する。矢はある時間にある距離を移動するが、時間を分割していくと、移動距離も短くなっていく。そのため、無限に分割した時間においては失はその空間で静止していることになる。同様に、次の時間においても次の空間で静止していることになる。従って、失はどの時間においても飛んでいないことになり矛盾する。
④競技場
停止した列車a、左から右へ移動する列車b、右から左へ移動する列車cがある。移動する速度は、それぞれ最小時間に対して1車両とする。それぞれの列車がすれ違うとき、列車bから見た場合、最小時間でaに対して1車両動くが、cに対しては2車両動く。最小時間単位で1車両動くわけであるから、cに対しては、1車両分動いたときは、最小時間単位の1/2のはずであり、最小時間でなく、矛盾する。
一般的には、無限等比級数の和や実数の連続性などと関連して解説されている感じです。難しくて理解できませんでしたが、以下は、個人的感想です。
①-1 二分法(前進型)
移動距離をx、時間をt、速度をv、とすると、v=dx/dtの関係となる(注1)。
目的地をx=1とすると、二分の繰り返しは、
x= 1/2+1/4+・・+(1/2)n+・・・・
t = 1/(2v)+1/(4v)・・・+(1/V)・(1/2)n+・・・
の関係にあり、あえて完結しない永遠の二分という作業をxとtのそれぞれに対して繰り返して、加算している。これは無意味な関係式の変形と思われるのですが。。。
Δx→0によりΔt→0となるだけで、ΔxとΔtの比率は一定(=v)ですので、どこの地点にいても、ある微小な時間Δt後には、v・Δt だけ移動させられます。
注 1)
xの変化量をΔx、tの変化量をΔtとし、Δx→0の極限をdx、Δt→0の極限をdtとすると、
x=vt …(1)
x+Δx=v(t+Δt) …(2)
(2)-(1)により、Δx=vΔt、 Δt→0のとき、dx=vdtとなります。
ここで、vはdxとdtの比率であって、dx、dtを単独に考えても意味がないのでは(dx=0.00001等は意味のない式)。。。
①-2 二分法(後進型)
時間を無視して自然数を数えるのと同様な(完結しない)無限の二分する作業を線分に実施しています。
Δx移動するとき、Δtかかるとすると、時間は止めることができないため、vの速度がある物体は、強制的にΔt後には、Δx(=vΔt)だけ移動させられてしまいます。それでは逆に、tを二分化していくとしたらどうでしょうか。時間は距離と異なり、二分割できませんが、考えることは可能です。1秒経過するには、1/2経過しなければならず、1/2経過するには1/4経過しなければならない(これを繰り返すと、時間は経過しないということになります)。
これもxの二分と同じで、無限の作業を時間に対して実施し、無意味な式の変形をしていますが、時間は止まりませんので、Δt後には、強制的にΔtだけ時間経過してしまいます。
*アリストテレスは言っているそうです。「点と点は接触できない。接触していれば点には大きさがないのだから、それらの2つの点は全く同じ位置を占めていることになり、それらは全く同一の点であることになる。」おっしゃる通りと思います。
Δx→0は、物理学の理想化に似ていると思います。物理学では、現実にはない仮想的な状態を考えます。例えば、大きさのない質量を持つ質点などを考えて、理論を構築します。その後、大きさのある質量の振る舞いなど明確にしていきます。
② アキレスとカメ
これもアキレスとカメの速度差がある場合の無限の繰り返しの話で、①と同様の感想です。
③ 飛ぶ失
瞬間は、静止としてとらえているが、瞬間においては、v=dx/dt(dxとdtの比率)であり、静止ではなくvの速度を持つと思います。「位置がきまる=静止」ではなく、ある位置にある物体は、時間経過により、静止しているものは静止し続け、運動しているときは、移動させられます。時間が経過するということは、運動しているものを強制的に速度分、動かすということであると思います。世界は、パラパラ漫画ではなく、それぞれ速度の2乗に比例したエネルギーを持つ物体の集まりだと思うのですが。。。
④ 競技場
bの速度をv、cの速度を-vとすると、列車bから見るとaは、-v、cは-2vに見えます。
現代で言うガリレイ変換の相対速度の考えをゼノンは認めています。しかし時間の計測方法を車両の移動量で計測しようとしています。一車両移動するとき、時間の最小単位Δtとします。そうすると、cを見てΔt経過したと思ったところ、aを見ると1/2車両しか動いていないので、Δt/2という最小時間単位の1/2の時間が発生しているから矛盾との主張です。確かに考えると不思議に思えてきますが、時間の定義が現代の物理学(相対性理論)と異なるのが原因の様な気がします。物理学の時間定義に分がありそうですが。。。
以上、個人的な感想でした。ゼノンのパラドックスはやっぱり不思議ですが、結局、不思議なのは無限ではなく時間の方だと思います。次の様に夢想してしまいます(あまりに飛躍しすぎて、残念ながら自分でも信じられませんが)。。。
ミクロで考えると時間は分割できない時間幅があり、その時間幅が次の分割できない時間幅に引き継がれていく。人の精神について考えると、日常、世界(肉体)に拘束されたマクロの時間に従う。しかし、死の直前、世界(肉体)に拘束されないミクロの時間をさまよい始め、更に最期、死の直前の最後の分割できない時間幅は、引き継ぐ次の分割できない時間幅がないので、世界(肉体)に拘束されない最後の分割できない時間幅の中で永遠に天国の夢をみる。それは精神にとって既に夢でなく、永遠の無時間の現実であるかもしれない。
精神は質量が無限小になり、光速度に近づき時間がゆっくりとなり、更に光になれば時間は停止する。。。
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