イエスタデイ パラレルワールド

映画

 イエスタデイという映画は、ビートルズが誕生しない世界で、ビートルズの歌を大ヒットさせる映画です。

 面白いです。 

 『幸せだった。それ以上の勝ちはないさ。』

 『幸せになる秘訣を知りたいか。愛する女に愛を伝え、ウソをつかずに生きることだ。』

  など、セリフも印象的です。

 この世界に似た世界が無限個存在するとの考えがあり、それらの世界をパラレルワールドと呼ぶ様です。

 人があることを決断する度に新たなパラレルワールドが発生するとの考えもあります。

 それでは、どのようなパラレルワールドが想定されるのでしょうか。

 数学に論理学と言うものがあります。A,Bを文(命題と呼ぶ)としたとき、「Aでない」、「AかつB」、「AまたはB」、「AならばB」などの関係をもとに、いろいろな文について、1(真)か0(偽)を明確にできます。電子回路の論理回路などにも使われる考え方です。

 また、「Aが必然である」、「Aが可能である」などの関係は、様相論理と言うようです。この様相を解釈する最も直観的な方法が可能世界モデルによる方法です。可能世界とは、現実世界を起点として現実世界から到達可能な世界のことです。パラレルワールドは、この可能世界のことだと解釈すると分かり易いと思います。

 一方、人は自分の意志だけで行動することができるのでしょうか。

 『われわれは過去のすでになされた行為に対して、「当の行為者がそのときそうしないこともできたはずだ」、すなわち「そうしない自由をもっていたはずだ」という想定のもとに責任を追及します。しかし、よく考えてみますと、これはとても不思議な想定です。一見、私は次の瞬間、右手を上げることも上げないことも選択できるような気がします。しかし、はたしてそうでしょうか。

 右手を上げれば、まさにそのとき右手を上げないでおくことはできなかったのだし、右手をあげないでおけば、まさにそのとき右手を上げることはできなかったわけです。つまり、もし自由を「あれもこれもできる」という意味に解すると、こんな簡単な場面でさえ選択の自由はけっして証明されません。私があるときにAを選んだことを承認しながら、「まさにそのときにこの同じ私がAを選ばないこともできたはずだ」と主張することは、よく考えてみますと、きわめて不思議な想定なのです。』(哲学の教科書 中島義道著 講談社学術文庫 P179)

 『過去の時点t0において私の目前に現に複数の道が延びていたのではない。私はそれらの道の前で逡巡した後に、そのうちの一つの道Aを選んだのではない。さまざまな道をたどって散策するように未来の行為をとらえるのは比喩としての意味しかもたない。しかも、ミスリーディングな(誤りに導く)比喩である。 ( 時間論 中島義道著 ちくま学芸文庫  P176)

 『過去の行為を想起することは、それを再現することではない。むしろ、現在はじめて、「過去の自由な行為」という意味を新たに与えることなのである。だが、その意味付与はあたかも行為者がその過去の時に複数の道を前にして、その一つを選択するかのようなイメージで描くほかはないのである。』(時間論 中島義道著 ちくま学芸文庫 P178)

 パラレルワールドは、空想上の産物として、大変面白い世界だと思います。

 人生を振り返って、「あのときこうしていれば。」と思うことが多々あると思います。しかし、その後悔そのものが、虚構なのかもしれません。

 これらを踏まえると、永井先生の以下内容も少しは理解できるかもしれません。

 『人生の価値は、何か有意義なことを行ったとか、人の役に立ったとか、そういうことにあるのではない。むしろ、起こったとおりのことが起こったことにある。他にたくさんの可能性があったはずなのに、まさにこれが、私の人生だったのだ。そこには何の意味も必然性もない。何の理由も根拠もない。その事実そのものがそのまま意義であり、価値なのである。偶然であると同時に必然でもあるこの剥き出しの事実性のうちにこそ、神性が顕現している。そこにこそ、<神>が存在する。その奇跡に感嘆し、その<神>をたたえてニーチェがなした祝福の祈りこそ永遠回帰の祈り。』

 『現にあるあり方と違ったあり方であってほしいなどとは欲しないこと。必然的なものを耐え忍ぶのみならず、ましてや隠すのでもなく、むしろ愛すること。』(これがニーチェだ 永井均著 講談社現代新書 P207,P208)

https://uchinokamisan.com/

コメント

タイトルとURLをコピーしました