ウォーターワールドは、水面上昇による陸地の消滅で、海中で呼吸のできるエラを持つ新種人間(ミュータント)が登場するSF映画です。
エラを持つ人造人間が登場し、現代の陰謀論を小説にした様な「第四間氷期(阿部公房著)」があります。
エラを持つ人間?に対して、現代人はどの様に思うのかについて考えさせてくれる小説です。
主人公の勝見博士は、予言機械に人の未来を予想させようとします。
また、死んだ人の情報を予言機械に入力すると、あたかもそこにその人がいるような会話も可能です。
主人公は、ある組織が水に住むことができる水棲(すいせい)人間の製造を大規模に実施していることが分かってきます。
さらに将来、陸地が消滅することも知らされます。
主人公は、その様な将来を受け入れることに抵抗します。
しかし、彼の部下である頼木は、陸地の消滅はきっかけにしかすぎず、それがなくても、水棲人間の製造は実施するべきことだと言い切ります。
『海底植民地の開発には、そうした天変地異のあるなしにかかわらず、それ自体に大きな意味がある。
やむを得ないからではなく、それ自体が積極的に素晴らしい世界だからなんだ。
ぼくは、海面上昇の問題は、むしろお偉方に覚悟を決めさせるための、いいきっかけになったくらいにしか考えていません。(中略)現に、財界の連中は、これで一儲けしてやろうというんでしょう?』 (第四間氷期 阿部公房著 新潮文庫 P292)
未来を否定的に見るか、肯定的にみるかの判断は、現代人にはないと筆者は言います。
『現在よりもはるかに高度に発展し進化した社会であるにしても、日常性という現在の微視的連続感に埋没している眼には、単に苦悩をひきおこすものにしかすぎないだろう。(中略)未来を了解するためには、現実に生きるだけでは不充分なのだ。日常性というこのもっとも平凡な秩序にこそ、もっとも大きな罪があることを、はっきり自覚しなければならないのである。』(P339)
『ぼくらの周囲には、あまりに日常的連続感の枠内での主観的判断が氾濫しすぎているのではあるまいか。』(P340)
普通に考えると、水棲人間の製造は、罪だと思います(読み進めて行くうち、段々と受け入れてしまうのですが)。しかし、筆者は、日常性という秩序を罪であると言います。
ある種の思想・信条・イデオロギーを、無謬(むびゅう,誤りのないこと)のものとして信じることは罪である、とでも解釈すれば良いのでしょうか。
死に対する不安の一つに未来についての好奇心があります。宇宙人との交流や恒星間移動などができる時代まで生きて見たいと思ってしまいます。
①しかし、本当の未来はこの小説の様に残酷なものかもしれません。
②また、高度に発達したSFに出てくるような未来であっても、日常として慣れてしまえば大したことがないのかもしれません。
『戦争の最前線にも、強制収容所にも、日常生活はある。ー《人間は絞首台にも慣れる》』(現象学の視線 鷲田清一著 講談社学術文庫 P26)
死に対する不安の一つをなくしてくれる小説の様に思います。
『リルケは「マルテの手記」のなかで次のように書いている。日常の「批判」はおそらく、ここでいう「詩」の出現のような出来事でなければならないだろう。
「・・・詩は一般に信じられているように感情ではなくて経験である。一行の詩をつくるには、さまざまな町を、人を、物を見ていなくてはならない。動物の心を知り、鳥の翔(と)ぶさまを感じ、小さな花が晨(あした)に開く姿をきわめなくてはならない。知らない土地の野路、思いがけない邂逅(かいこう)、虫が知らせた別離、まだ明らかにされていない幼年のころ、そして、両親のことを。幼かった僕たちを喜ばせようとして与えらた玩具が僕たちを喜ばせなくて(他の子供が喜びそうな玩具であったから)、気色をそんじた両親のこと、妙な気分で始まって、何回も深い大きな変化をとげさせる幼い日の病気、そして、静かな寂(せき)とした部屋の日々、海辺の朝、そして、海、あの海この海、また、天空高く馳(は)せすぎ星とともに流れ去った旅の夜を思い出さなくてはならない。それを思い出すだけでは十分ではない。夜ごとに相のちがう愛欲の夜、陣痛の女の叫び、肉体が再び閉じ合わさるのを待ちながら深い眠りをつづけるほっそりとした白衣の産婦ーこれについても思い出を持たなければならない。また、臨終の者の枕辺にも坐したことがなくてはならない。窓を開けはなち、つき出すような嗚咽(おえつ)の聞こえくる部屋で死者のそばに坐した経験がなくてはならない。しかし、思い出を持つだけでは十分ではない。思い出が多くなったら、それを忘れることができなければならない。再び思い出がよみがえるまで気長に静かに待つ辛抱がなくてはならない。思い出だけでは十分ではないからである。思い出が僕たちのなかで血となり、眼差(まなざし)となり、表情となり、名前を失い、僕たちと区別がなくなったときに、恵まれたまれな瞬間に、一行の詩の最初の言葉が思い出のなかに燦然(さんぜん)と現われ浮かび上がるのである。」』(現象学の視線 鷲田清一著 講談社学術文庫 P83~P84)
【補足:自然破壊と生活水準について】
黒澤明監督映画『夢』「水車のある村」のセリフです。
・人間は便利なものに弱い、便利なものほどいいものだと思っている。本当にいいものを捨ててしまう。
・暗いのが夜だ、夜まで昼のように明るくては困る。星も見えないような明るさなんていらない。
・人間は自分たちも自然の一部だということを忘れている。自然は手の上なのに、その自然を乱暴にいじくりまわす。俺たちはもっといいものができると思っている。
・まず人間に一番大切なのは、いい空気や綺麗な水、それを創り出す木や草なのに、それは汚され放題、失われ放題、汚された空気や水は、人間の心まで汚してしまう。
一方、人間は便利なものに弱いのですが、産業革命のおかげで、私たちが思っている以上に豊かになっている様です。
三橋貴明先生(三橋TV 第415回)の動画で言っていました。
https://www.youtube.com/watch?=kvFXnGv1ncs&list=PLtWXzsOKCDq9bao7ecCS6V0Ur7ipMamJ5&index=10
『・産業革命のおかげで、資本(車、道路、工場)が資本を生むことが可能となり、飛躍的に生産性が向上した。
初めて豊かになる経済を手に入れた。しかし、生産性向上に離陸できた国は、限られている。
・それまでは、土地を耕し、農産物を得るという、資本をつくれない、ギリギリの生活であった。
・ルイ14世でさえ、今の日本の一番生活水準の低い人よりはるかに下。』
また、世界人口については、産業革命から爆発的に増え、2064年ピークに達する予想があります。この人工増加も経済の発展と自然破壊に影響を与えます。
現代は、産業革命と人口の急増による生活水準の飛躍的向上という歴史的に見ても極めて特殊な恵まれた時代の様です(行き過ぎた自然破壊が問題ではありますが)。
昭和の時代は良かったと言う方がいますが、たしかに懐かしさという感情があり、昭和の時代も悪くなかったとは思います。しかし、今の圧倒的に便利になった平成、令和を経験した人は、昭和の時代にはついていけないと思います。個人的には、過去、未来を含め、やっぱり平成、令和の時代がもっとも良い時代なのではないかと思ってしまいます。
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