インセプション 現(うつつ)の私

映画

 インセプションは、夢を扱った映画で大変面白いです。何回も見てしまいました。

 夢は現実逃避できて有難い体験?です。

 

 ある夢

  

 『貝殻草のにおいを嗅ぐと魚になった夢を見るという。(…)夢の中の魚が経験する時間は、覚めている時とは、まるで違った流れ方をするという。速度が目立って遅くなり、地上の数秒が、数日間にも、数週間にも、引き延ばされて感じられるらしいのだ。(…)

 胃下垂、首や肩のこり、膝の関節の痛み、足の甲のむくみ、そういった引力に起因する肉体上の苦痛からも、完全に解放されて、すくなくも十年は若返ったように、はしゃいでまわる。軽さが、酒のように、この夢の魚を酔わせてしまうのだ。

 だが、本物の魚ならいざ知らず、いずれ酔いは醒めるし、飽きもくる。のろのろとした、時の流れのなかで、退屈はやがて耐えがたいものになるだろう。退屈しきった贋魚(にせうお)の、苛立つ気分を想像するのは、そう難しいことではないはずだ。(…)

 どんな好奇心だって、けっきょく最後は、手で触って確かめてみるのでなければ本当の満足なんてありえないのだ。(…)

 もしかすると、こうしたすべてが、夢のなかの出来事なのではあるまいか。

 それにしては、長すぎる夢。いつから始まったのか、もう思い出せないほど昔から続いている、長い夢。これでも何時かは、覚めてくれることがあるのだろうか。(…)

 反対に天に向かって墜落し、空気におぼれてやればいいわけだ。死の危険が賭けられていることに、変わりはない。地上の墜落とおなじことで、夢なら覚めずにはいられまい。(…)

 贋魚は待つことにした。意志までが、海の青さに染まって、青ざめてしまったようだった。

 さらに、何日か、何週間かが経ち、贋魚にもやっと決断をせまられる時がきた。嵐がやってきたのだ。大型の熱帯性低気圧が襲いかかって、海を底から揺り動かした。優柔不断で、臆病な贋魚でさえ、なけなしの勇気をはたく気にさせるくらいの高波が立ってくれた。なにも進んで死に急ぐわけではない。はずみで、ちょっと、うねりの一つに身を任せてみるだけのことだ。(…)空気に溺れて、贋魚は死んだ。

 ところで、夢は覚めただろうか。いや、貝殻草の夢を、そう甘くみてはいけない。そこが普通の夢とは、まるで違ったところなのだ。贋魚は、夢から覚める前に死んでしまっていたので、もうそれ以上覚めるわけにはいかなかった。死んだ後までも、まだ夢を見つづけなければならなかった。けっきょく、死んだ贋魚は、最新式の冷凍処理を受けたように、いつまで経っても贋魚のままでいるしかないらしいのだ。

 嵐の後、海辺に打ち上げられた魚たちのなかには、だから、貝殻草の花にむせながら睡りについた、運の悪い連中がすくなからず混じっているはずだという。』(箱男 安部公房 新潮文庫 P48~P52)

 

 純粋に夢の話なら、最後の2行は不要の様な気がします。贋魚になったら、もうそこは夢ではなく、ある現だということでしょうか。

 ところで、現の私は、手で触ってみなければ本当の満足なんてありえない存在です。

 

 存在

 

『 本質存在とは、あるものが何であるか(…である)。

  事実存在とは、あるものがあるかないか(…がある)。』(ハイデガーの思想 木田元著 岩波新書 P116)

 プラトンは、本質存在が真に存在するものと考えた様です。

『プラトンは、<イデア>こそが真に存在するものであり、個体的存在者は単に存在するように見えるだけの<模像(エイドーロン)>に過ぎないと見る。』(ハイデガーの思想 木田元著 岩波新書 P166)

 時代は流れ、ハイデガーは事実存在がまずあるとの意見です。

『ハイデガーは、<存在>と<言葉>と<人間の思考>の関係について興味深い定義をくだしている。

 「すべて先立ってまず<ある>のは、存在である。思考は、人間の本質へのこの存在の関わりを仕上げるのである。思考がこの関わりをつくり出したり惹き起こしたりするわけではない。思考はこの関わりを、存在からゆだねられたものとして、存在に捧げるだけのことである。この捧げるということの意味は、思考のうちで存在が言葉となって現れるということにほかならない。言葉こそ存在の住居である。言葉というこの宿りに住みつくのが人間なのである。思索する者たちと詩作する者たちは、この宿りの番人である。彼らがおこなう見張りとは、彼らが語ることによって存在の明るみを言葉にもたらし言葉のうちに保存するというふうにして、その明るみを仕上げることにほかならない。」』(ハイデガーの思想 木田元著 岩波新書 P202)

 存在と言葉は、切っても切れない関係の様です。

 

 ことばの表現力

 

 『可能な最大の表現力を持つ言語というものを想定することができる。もしそんな言語が存在すれば、それは「語ることが可能な全てのことを語りうる言語」であるはずであり、それによって思考する生き物は「考えうる全てのことが思考できる存在者」であろう。こうした言語を表現力極大言語、あるいは単に極大言語と呼ぶことにしよう。そしてある言語を極大言語たらしめる構造的性質を言語の極大性条件と呼ぼう。こうした言葉を用いて表現するなら、「ムーアノート」の根本問題とは「我々人間の言語は果たして極大言語か」ということに他ならない。これに対するウィトゲンシュタインの最終的な答えは、「然り」というものである。』(ウィトゲンシュタインはこう考えた 鬼界彰夫 講談社現代新書 P66)

 

 ことばと私

 

 『私が眼前のバラの「赤」を見ているとき、バラの表面からの光が瞳孔に入り視神経を経て視覚中枢までの経路はまったく物質の状態です。その末端の視覚中枢の状態Pzが、それとはまったく別のあり方をしている「赤」というクオリアを「産み出す」ことは不可能ではないでしょうか。

 こうとらえるかぎりでの心身問題は、見えさせているものと見えるものとの関係を因果関係とみなす誤りに基づいている、と言えましょう。瞳孔から視覚中枢までの経路は見えさせているものであり、たしかに「そのことによって」眼前のバラの色がこのように見えている。しかし「そのことによって」とは因果関係ではない。見えさせているものと見えるものとの関係は「すなわち」の関係であり、われわれが一つの自然を炸裂させ、その中にR・カルナップの言葉を用いれば「物言語」と「知覚言語」という互いに両立しない二つの言語を持ち込んだ結果なのです。すべては、これら二つの言語のあいだの関係にすぎません。』(「私」の秘密 中島義道 講談社学術文庫 P62~63)

 また、想起とは何でしょうか。

『この場合、想起とは、ベルクソンが区別するように、自転車の乗り方を憶えているというような身体で憶えた記憶ではなく、エピソード記憶、すなわち「あのときSをした、そして次にTをした、そしてSの前にRをした」と語れるように、みずからの過去体験を時間上に分節的=言語的に並べることのできる想起のことです。』(「私」の秘密 中島義道 講談社学術文庫 P82)

『こうして、エピソード記憶という能力に支えられて過去形を使えることをもって、私は多数の<いま>という分節された楔からなる新たな世界を手に入れます。このとき、刺激=知覚が消え去った後の世界、つまり過去が膨大な領域として私に出現するのです。』(「私」の秘密 中島義道 講談社学術文庫 P86)

『エピソード記憶に基づいた想起の対象として、別の <いま>が出現しないとき、そこに純粋な現在が開かれているわけではない。それは単なる刺激の渦であって、それはいかなる意味においても<いま>ではないのです。

 知覚している時が<いま>であるという了解も、それ自体として了解されるわけではありません。知覚の作用およびその対象が現在であることは、知覚能力だけしかなく、想起能力のない存在者にとっては、意味をなさないでしょう。知覚の作用と対象が現在であることは、現在ではない時を知っている者にとってのみ意味をもつ。そして、現在ではない時が開かれるのは、ひとえに想起によってなのです。』(「私」の秘密 中島義道 講談社学術文庫 P87)

『刻々と転変する現象の連続的変化を正確に知覚する能力をもち、それを正確に記録する能力をもっても、エピソード記憶の能力を持たない者、想起している時を<いま>とし想起の対象を別の<いま>と了解することができない者は「私というあり方」ではありません。

 私は知覚の成立とともに成立するのではなく、エピソード記憶の成立とともに成立する。私の成立は、現在が開かれるときに成立するのではなく、過去が開かれるときに成立するのです。

 まさにここが私の発生源なのであり、それ以前のいかなるところにも私は生じていない。知覚するだけの作用主体、思考するだけの作用主体が、いかに正確に世界を把握しようとも、そこに過去という一つの時を現在という一つの時の彼方に登場させないかぎり、私ではないのです。』(「私」の秘密 中島義道 講談社学術文庫 P106~107)

 

 社会と私

 

 『いまじぶんにできることのうちからどれかを選ぶことが生きることなら、生きるということはそれ以外のいくつかのなしえたかもしれないことを棄てていくということだ。わたしたちが失ったもの。そうでありえたかもしれないじぶん、でももうそうはなれないじぶん。それを哲学者の九鬼周造は、「遠い遠いところ、私が生まれたよりももっと遠いところ、そこではまだ可能が可能のままであったところ。」と書いた。(…)

 そうありえたかもしれないじぶんをつぎつぎに棄てていくことで、はじめて<じぶん>になるということ、それを精神科医のロナルド・D・レインは、「エクスタシーの放棄」と呼んだ。つまり、わたしたちがつねに一定の「だれか」であるのは、別のものになる=自分でなくなる(つまりエクスタシー)さまざまの可能性を縮減して、社会のなかでイメージとして公認されているある人格のタイプに自分を合わせることによってだ、というのである。』

(じぶん・この不思議な存在 鷲田清一著 講談社現代新書 P28~29)

『自己のアイデンティティとは、自分が何者であるかを、自己に語って聞かせる説話(ストーリー)である』(じぶん・この不思議な存在 鷲田清一著 講談社現代新書 P72)

『「ぼく、田舎があかんにゃ。いろんなひとに、ものめずらしそうに見つめられて。大阪へ帰ってきて、夜じゅううろついたら、ようわからんけどほっとする。」友人がそうつぶやいていたことがあるが、パソコン・ゲームが好きなひと、あるいはマネキンなんかに魅力を感じるひとがひたろうとしている時間も、たぶん同じ性質のものだろう。じぶんがだれでもなくなるという安らぎ、心地よさ。』(じぶん・この不思議な存在 鷲田清一著 講談社現代新書 P87)

『わたしたちがどこかの会社員であったり、だれかの父であったり、どこかのクラブのメンバーであったりするのも、結局ある特定の社会的な意味体系に<憑かれる>ことにほかならないことになるというわけだ。

 ひとは、そういう(どこまでも恣意性をまぬがれえない、つまり別でもありうる)一定の幻想体系にあずかることによってはじめて、現にあるような「リアル」な生をもちえている。ある特定の時代、特定の社会のなかで人びとによって共有されている意味の象徴的なシステム、それに<憑かれる>ことによって、ひとは「ひと」になるのである。』

(じぶん・この不思議な存在 鷲田清一著 講談社現代新書 P98)

 

 GGチャンネル「映画『マトリックス』とその世界」(YouTube)の番組からの引用です。

 この方は、映画マトリクスの感想として、「パトナムの水槽の脳」や「ラッセルの五分前世界創造仮説」、「デカルトの連続的創造」、「シミュレーション仮説」などには触れず、社会システムの真偽についてお話してくれました。この方の視点は、いつも勉強になります。

 世の中には、様々なフォーマットがある。共産党フォーマット、脱炭素フォーマット、ワクチンフォーマット…。自分は、リアルな世界に生きているけど、真実とは違った自分の思い込みで(ある設定で情報を取捨選択して)生きている。

 日本で流行っていて困ったものだと思うのに、大小関係フォーマットがある。年収(お金で買えないものが半分はあって、お金で買えないものの方が大事)、偏差値(正解のある問題だけでの判定であるが、正解のない問題の方が大事)など。大事なのは、「換金可/採点可」でない方の世界ではないかとのことです。

 

 いろいろな面からいろいろな社会的体系があり、自分の<憑かれている>社会を自覚することも必要です。

 

 

 

『 同じように、死んでいる場合も、私は夢(のようなもの)をみつづけているのかもしれない。しかし、それは永遠に目覚めることのない夢です。すべては「夢だった」と過去形で語ることがいつまでも訪れない夢なのです。

 死、それは私の消滅ですが、私はまったく新しいあり方へ向かって消滅するだけなのかもしれません。』(「私」の秘密 中島義道 講談社学術文庫 P201)

 

 人間の最期である危篤時、夢を見る。夢は目覚めなければ、無時間の永遠の一瞬なのかもしれない。私の最期に、永遠に夢を見続ける私がいる…かも。

「死後生は物語としてしか語ることができないが、死後生という物語を持つことで、人の人生はより豊かになる」と述べたのは、河合隼雄先生です。

 何を信じるかは、私の勝手ですが、信じるものがまだないのが、私の問題なのだと思います。

 

https://uchinokamisan.com/

 

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