猿の惑星 言語

映画

 私が小さい頃、TVで猿の惑星を見ました。

 猿と人間が逆転して、猿が人間を狩るシーンも凄かったですが、最後の自由の女神が圧巻でした。当時、TVゲームなどなく、TVの話題しかなかった時代でしたので、次の日は学校で話題になりました。

 宇宙飛行士が、なぜ未来の地球に戻ったのかについては、相対性理論により、高速で運動する物体は、静止している物体に対して、時間の進み方が遅くなるとのことですので、納得?できます。物理学では、法則や原理については、それ以上の説明はない様です。相対性理論も法則ですので、なぜその様になるのかについては説明できません。不思議なことも、納得するしかないようです。

 蛇足ですが、不思議と言えば、量子力学や相対論が有名ですが、幾何光学でも、最小時間の原理、またはフェルマーの原理と言うものがあるそうです。光はどれが最小の時間になるかを決定し、そしてその経路を選ぶ、と言う因果的でない原理だそうです。

 

 一方、猿が将来、言葉を喋ることが可能なのかどうか。現時点では、人は言葉を喋れて、猿は喋れません。将来この差がなくなるとは思えません。そもそも言葉とは何なのでしょうか。

 

 犬、机などの名を記述によって過不足なく定義することができるでしょうか。少なくとも、犬や机を見たことも聞いたこともない人に対して意味内容がわかる定義があるとは思えません。

 このことに対して、プラトンのイデア論が有名です。魂はすでに別のところで、名について多くのことを知っていて、それを思い出している。すでに知っていることをイデアと呼びます。イデアは名だけでない様です。ピタゴラスの定理の証明を教えると、誰もがが理解できます。このことについても、魂は既にピタゴラスの定理の証明を知っていて、思い出したことになります(イデアについては、専門的にはもっと難しい内容の様です)。

 似たような考えとして、仏教の阿頼耶識(あらやしき)と言うのもあります。

 『昨日の自己と今日の自己とが同一であると感じるのは、意識が断絶してもその背後にある阿頼耶識が存在していたためである。アーラヤとは蔵のことであり、過去から現在までに至るまでのすべての経験を蓄える蔵である。自分の両親や祖先のおかしたありとあらゆる経験を貯蔵しているのが阿頼耶識である。』(禅とはなにか 鎌田茂雄著 講談社学術文庫 p36、p38)

 一方、イデアではなく、犬、机などの名は、最初から犬や机が世の中に存在しているのではなく、日常経験の過程で、犬や机を教えられて名を理解していくと言う考えがあります。私は、こちらの考え方に納得してしまいます。このとき、場所や時代の違いにより、犬や机が微妙に違う場合があるとのことです。これは、虹の色の数が国により異なることや、昔の日本では、虫という名を蛇も含めていたことなどの違いです。しかしながら、経験から得られる名もイデアも、一度知ってしまえば、元の知らない状態には戻れないので、結果的にはどちらも変わらない様な気がします。

 

 イデアであっても、経験による知であっても、この「机」が机であることの疑う余地のない自明さは、世界の単純化と結びついています。世界は隅々まで意味づけられており、意味のないものは我々の世界にはないのです。また、個々の犬や机はそれぞれ違うのに、一般的な犬や机に意味づけられます。今日や昨日も一般的な単純な毎日に意味づけられます。

 

 このように、すべての物は名前をもっていることを知った後には、私が出会う世界は名前によって構造化されていて、名前以前の現実には出会えない様になってしまいます。人は言語の牢獄から出られなくなります。

 言語を習得するには、環境が大事ですが、それだけではなく、なぜか人である必要がある様です。人は、言語の習得により言語の牢獄から出られないだけでなく、死の恐怖まで知ってしまうのです。

 

 自分の死を考えるにあたって、言語についてのある程度の理解は必須と思われます。そもそも死と言う名前自体が言語であるからです。私は、経験により、私以外の死を知っています。しかしながら、私の死を経験により知りません。名は、経験によりのみ知りうる知だとしたならば、私の死は、知の範囲外であることになります。なので、私の死が、理解困難な理由なのだと思います。しかし、正しくなくても、私の死を自分なりに納得することは、出来る様な気がします。

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